百川帰海
2013-09-17T18:36:03+09:00
tamami-mokusiroku
ライター及び創作に於ける 思考と感性の一考察
Excite Blog
一つの魅力・・・
http://tamamimoku.exblog.jp/20743824/
2013-09-17T18:23:00+09:00
2013-09-17T18:36:03+09:00
2013-09-17T18:23:39+09:00
tamami-mokusiroku
未分類
色褪せずして現在に通ずる名作
「シャーロックホームズの冒険」と「名探偵ポワロ」をギャオで楽しませて頂いております。
事件絡みであるはずなのに何故か心が休まるのを覚えます。何故?
彼らは決して死なず、確実に解決させるのが分かっているから・・・
彼らは紳士的で、優しくて、厳しくて、情も深く且つ論理的。
ただし詩を愛する「アダム・ダルグリッシュ警視」のようなソフトさはありません。
ホームズはバイオリンを奏でますが、じっくり嗜んでいるようにはお見受けできません。
ポワロは美食家で、お洒落にこだわりを持っております。
おおざっぱな彼らの特徴は私の主観。共通しているのは国は「イギリス」
モダンでクラシカル・・・これはとても大事なことです。
夫々がその時代の社会的特徴が顕著なのは言うまでもないことですが、
映像は風景とファッション、インテリア等にも興味を湧かせてくれます。
彼らは分析しますが、その根底には優しさ(愛)が感じられます。
故に人物(私)を分析されることが不快と感ずることがないのです。
事件絡みでなかったとして分析されたとしてもそこに愛を感ずることが出来たら
あるいはひどく怒りを蒙って叱られたとしても根底に愛を感ずることが出来たら
素直に受け入れることが出来るのです。
時代を経ても尚、文学や芸術のベースには愛があると実感致します。
クリエイターが意図しなくとも滲み出るもの、表面化されなくとも
作品の裏側にあるものが観るもの、読む者、聴くものに伝心するであろうから。
作者は彼らを実に魅力的に描いてくれました。
作者は彼らをある種の理想を抱きつ描いたのであろうか?
ああ・・・ああ~・・・
書けば良いと謂うわけには参りません。
私は映像で観ただけで、本を読んではおりません。
じっくり遅まきながら読んで行こうとしみじみ思っております。
*★*―――――*★*―――――*★*―――――*★*―――――*★*
●シャーロック・ホームズの作者
サー・アーサー・コナン・ドイル(英語: Sir Arthur Conan Doyle、
本名:Arthur Ignatius Conan Doyle、1859年5月22日 - 1930年7月7日)
イギリス・スコットランドのエディンバラ生まれの小説家で、推理小説・歴史小説・SFを多く著した。
1902年8月9日に下級勲爵士 (Knight Bachelor)に叙せられた。
●エルキュール・ポワロの作者
アガサ・メアリ・クラリッサ・クリスティ(Dame Agatha Mary Clarissa Christie, DBE、旧姓: ミラー (Miller)、1890年9月15日 - 1976年1月12日)
イギリス生まれの推理作家である。発表された推理小説は世界的なベストセラーとなり「ミステリーの女王」と呼ばれた。英国推理作家のクラブであるディテクションクラブの第4代会長。
メアリ・ウェストマコット (Mary Westmacott) 名の小説が6作品ある
●アダム・ダルグリッシュ警視の作者
フィリス・ドロシー・ジェイムズ(Phyllis Dorothy James, 1920年8月3日 - )
イギリスの女流推理作家である。
1983年にDBE(大英帝国勲章中等勲爵士)に叙され、
1991年に一代貴族の男爵(ホランド・パーク男爵)に叙される。
*★*―――――*★*―――――*★*―――――*★*―――――*★*
ライン内はウィキより抜粋
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一つの指針
http://tamamimoku.exblog.jp/20569694/
2013-07-31T18:53:00+09:00
2013-07-31T20:50:40+09:00
2013-07-31T18:53:29+09:00
tamami-mokusiroku
未分類
時々霧が立ち込める中でちいさな一点の光りを見つけたら
しっかり眼と心でキャッチ・・・離さずに掴まえて何処までも・・・
★★
創作でも文章でも書くことによって行動することによって
掴めるものがあります。
同様に何かが見えて来たり見えたり致します。
書くことにより掴めた事 あるいは見えた事で徐々に
目的に近づいていることもございます。
それは新たな指針を得る事に繋がったり、あるいは
新たな方向性が見えて来ることにも通じます。
この連続性や連鎖は体感と体得の手ごたえであり、
ささやかなりとも気力のドアをノックしたことで
次の扉のドアが開かれるのです。
せっかく見つけたドア、せっかく開いた入り口です。
ドアノブを開いてずずーっと 奥へ・・・
では、今日は何を書きましょうか?
何を創作致しましょうか?
決められた課題に沿ってショートショートの学習も良いでしょう。
継続こそ力なり・・・です。
ピカリと放った光りは一つの指針でもあります。
ピピッと感受したならば光りのある方へ進みます。
何があっても大丈夫・・・一点の光りだけを見つめ
一点の光りを突破しましょう。・・・自戒 自戒
*★*―――――*★*―――――*★*―――――*★*―――――*★*
デジタル大辞泉の解説.
し‐しん 【指針】
1 磁石盤・時計・各種メーターなどの指示装置についている針。
2 物事を進めるうえでたよりとなるもの。
参考となる基本的な方針。手引き。「人生の―とする」
*★*―――――*★*―――――*★*―――――*★*―――――*★*
大辞林 第三版の解説.
ししん【指針】
① 時計・計器類などの針。
② 取るべき態度や進むべき方向を示す方針。 「 -を与える」 ]]>
一つの風景
http://tamamimoku.exblog.jp/20425100/
2013-06-27T18:02:00+09:00
2013-06-27T22:21:50+09:00
2013-06-27T18:02:06+09:00
tamami-mokusiroku
未分類
テーマの冒頭にいつも「一つの・・・」と
敢えて「一つ」を前に位置づけております。
数多あるうちの一つであることにはちがいありません。
お部屋の中に居ながらにして ある「一つの風景」が浮んだとき
心が解放されます。
その時々に於いてその「一つの風景」なるものはむろん違いますが、
共通しておりますのが「クラシック」な風景
あるいは「モダン」な風景や背景を感じたときなのです。
たとえ古びたあばら家であったとしてもそこに
浪漫を感じ取ることが出来るならばそれは「モダン」であり
「クラシック」に私の感性に響いてまいります。
これこそが私が求め願うものなのです。
例えばある方のブログの中の画像に文章にそれがなんとわなしに表現され
それを私が感じ取ったときに 再度 そのブログを拝見したいという要求に駆られます。
かくして、「一つの風景」はパソコンの画面上からも求め探すことにより
自らに息吹を浴びることができるのです。
遠出が叶わぬならば、自宅で・・・
それでもふと浮ぶ「一つの風景」は以前観たことのあるドラマの中の風景です。
数多ある中の一つの風景・・・イギリスの片田舎
何処にあるのでしょう。地図を広げ、検索し、探します。
あの風景は今も存在しているのでしょうか?
子供の頃育った環境にも若干似ておりました。
風にそよぐ広い野原、道端の砂利、林の中の木漏れ日・・・
林の中の細い道を抜けると白い光りが当たる場所
ここから先には行けない。帰り道が分からなくなるから。
帰りの時間が遅くなると暗くなるから。
そんなことを小さな頭に抱え、ストップする場所はいつも同じ場所。
そして、イギリスの片田舎の風景と交差します。
気が重くなったときにこの風景を思い浮かべると心が晴れるのです。
重い重い感覚から明るく軽い環境へ誘われるのです。
物語はハッピーエンドが好きです。
希望を抱くことの出来る物語。夢を追う視野が開けるような物語。
リアルはあまりにも・・・
さて、愚痴にならぬうちに ここまでに致します。
明日はどんな風景が浮んでくるでしょうか。
「ある一つのその美しい風景」により私は生かされているのかもしれません。
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一つの選択
http://tamamimoku.exblog.jp/20255354/
2013-05-23T19:29:00+09:00
2013-05-24T06:59:44+09:00
2013-05-23T19:29:15+09:00
tamami-mokusiroku
未分類
書こう書こうと思いながら日数が経ってしまいました。
その時の内容をメモしておらず思い出そうとしても思い出せない歯痒さ、
思い出す努力をやめました。
これは、【ノートテイキング】Note-Taking することを怠った為に起きたことです。
日常の一日の流れを把握する為や思いついた事をメモする為にいつも机上にはA5のルーズリーフを開いたまま置いております。
開いておりますとすぐにメモることが出来るからに他なりません。閉じておりますと後で書こうと思い忘れてしまうのです。
外出の時は文庫本の大きさのノートを持ち歩いておりますが、意識しておりませんと「忘れないから大丈夫」と高を括って書き込みを怠ります。
でも、案の定思い出せません。そのうちにふとした時に思い出すことでしょう。
だと良いのだけれど、そう思いつつ諦めます。
書きますと後で見る必要さえないほどに書くことによりインプットされ忘れないものです。
分かっておりますのにいつも同じ失敗を繰り返しております。
それと、インスピレーションは【神様からの贈り物】これは即メモです。
やはりこれまでに何度も同じ失敗をくり返し痛切に感じました。
閃きをそのままにしておくとは何てもったいないことをしたものです。
必要とあらば叉の機会を下さるでしょう・・・と自らに言い聞かせて諦めます。
自戒 自戒です。
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一つの礎なるもの
http://tamamimoku.exblog.jp/19825010/
2013-04-11T14:55:00+09:00
2013-04-11T21:14:37+09:00
2013-04-11T14:55:50+09:00
tamami-mokusiroku
未分類
ずーっと以前に、読書の時に感じたことがあります。
云うまでもないことですが、そこにはベースになるものが存在しておりました。
聖書・神話・シェイクスピア・伝承・民話・上代の文学所謂古典です。
それは読書しつつワクワクするほどに楽しいものです。
これは聖書のあの部分、これはケルト神話、これはギリシャ神話、・・・
それに気付かされた時の興奮は鮮明に覚えているものです。
内容の中には引用しつつ展開するドラマも数多く存在しますが、
それとはちと、いいえ 大いに違うものなのです。
古典を読む楽しみが所謂別の角度から一つ増えたものです。
読書&創作への誘いが沸々と音を立てて膨らんでまいります。
時折疲れた時に忘れかけているこれらの感動や思いを振り返る
ことになります。
私の悪い? 癖は一つの事物に対して掘り下げて夢中になって方向を見失い
そこに埋没しかねないということです。
では、そこそこに・・・
それでどうにか咀嚼する術を知らなくてはと思うわけです。
日本の古典は子供の頃に簡単な物語を読んでおりますが、その時の子供心の
感動を思い起こしては、同じ内容の古典を読むわけです。
途中で投げ出しては読了していないのが「源氏物語」・・・
何故でしょう? どうも内容が私の感性に合わなかったのでしょう。
挑戦してみようと思う昨今です。
小説家というよりもこの方は思想家に相応しいと思ったのが「ヘッセ」です。
思い浮かぶことのあれこれを思いつくままに認めております。
一つの作品を取り上げてあるいは一人の著者名を取り上げて説明するのが
良い方法かと存じますが、行き当たりばったりの印を残します。
こちらに掲載しました内容の中から一点を取り上げていつか今後具体的に
書くこともあろうかと思います。
思いつくままの一齣でした。
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一つの方向性
http://tamamimoku.exblog.jp/19810646/
2013-04-08T19:21:00+09:00
2013-04-08T19:31:41+09:00
2013-04-08T19:21:07+09:00
tamami-mokusiroku
未分類
【私小説とは・・・】
小説の読書量は少ないかと思います。
中学生の頃読んだ本で心に残っているものもありません。
高校生の頃から翻訳物ばかり読んでおりました。
いや、哲学書かな?形而上学とか聖書等・・・
私は何処から来て何処へ行くのだろうか?
私はここに来る前に何処に居たのだろう?
小学生の頃の私はこんな事ばかり考えて夜も眠れないほど
恐ろしかったものです。
何故宗教を持っている人は皆他の宗教の批判ばかりしているのだろうか?
宗教って何?
真実って何?
一番大切なものは何?
こんなことばかり考えておりました青春時代は楽しいはずもありません。
それは大人になっても続きます。
【心に残る書物】
絵本です。
今でも鮮明に残っておりますのが「ピーターパン」
「親指姫」や「一寸法師」は絵の美しさが記憶に刷り込まれております。
あの絵本はもう何処にもありません。
無駄とは知りながら探しましたが見つかりませんでした。
探す術など本屋さんだけですものあろうはずもありません。
図書館はどうでしょうか? いえ、記憶の中のままに留めておくのもそれもまた、
一つの選択肢です。
物語では、まだまだあるのですが、テーマが思い出せません。
そのうちふと、思い出すことでしょう。
思い出すたびにこちらに認めることに致すとして・・・
つまり、それを考えておりますとその中にどっぷり浸かり、先に進まず
そのまま放置しかねません。
次から次と降り注ぐ文字の雨は整理するのが容易ではありません。
今は思いつくたびに認める方法に致しましょう。
一つは辻邦夫さんの「輩教者ユリアヌス」が面白くその後
彼の作品に夢中になりました。
そして、塩野七海さん
ヘッセ、ゲーテ、カフカ、スタインベック等々の翻訳者に夢中になりましたが、
原本で読んだらまた別な感動を得られるかもしれないと想ったものです。
さて・・・馴染めなかった小説は日本文学の私小説です。
読書後の何とも云えないやりきれなさ、
野暮ったさばかりが肌に染み付く不快感を覚えたものです。
つまらない・・・
そんな中で唯一引き込まれて読んだのが倉橋由美子さんでした。
つまりは、今にして思うことは彼女の作品は所謂創作なのです。
創作こそが小説・・・これは持論です。
スマートでモダンだったからかしら?
現在私の本棚を探しても彼女の作品は見つかりません。
引越しの度に整理されてしまったのかもしれません。
私自身が実行したはずなのですが、記憶の彼方です。
そんな時に只管残念でなりません。
また、読んでみよう。いや、もうそんな時間はありません。
【では、私小説とは?】
ーウィキより長い抜粋ですー
私小説(ししょうせつ・わたくししょうせつ)は、日本の近代小説に見られた、
作者が直接に経験したことがらを素材にして書かれた小説をさす用語である。
心境小説と呼ぶこともあるものの、私小説と心境小説は区別されることもある。
日本における自然主義文学は、私小説として展開された。
ー中略ー
「私小説」は、そのような手法と相まって身の回りや自分自身のことを
芸術として描く。内面描写を中心に語られる事が多い。
その名称から、「私」と一人称で語られるものとする誤解があるが、
三人称のものも多い。
小説においては作者と作品の主人公は同一視出来ないとするのが
一般的だが、私小説の解釈では主人公がしばしば作者本人と同一視され、
作者の年譜との比較検証がされる事もある。
批評
小林秀雄は「私小説論」(1935年刊)で、西洋の「私」は社会化されているが、
日本の「私」は社会化されていないと、「私小説は死んだ」と説いた。
小林の批評は、戦後も長く影響を持った。他方、西洋19世紀のいわゆる
本格小説は通俗的であるという観点から、久米正雄は、私小説のみが
純文学であると主張し、この通念も長く文壇を支配した。
私小説批判を展開したのは、戦後の中村光夫、福永武彦、中村真一郎ら
であり、彼らはフランスのフロベールやバルザックなどの“客観小説”を
模範とした。しかし、のちに中村光夫は自身が私小説を多く書き、また実際の
文芸批評では私小説も評価した。
伊藤整は、近代小説の根源に作家本人の告白性があると主張した。
さらに平野謙は、私小説には調和型と破滅型の2種類があるという考えを
押し進め、
1.白樺派を源流とした、自己を掘り下げることと自分の生活を調和させる
代わりに制作意欲を減退させた調和型心境小説
2.自然主義を源とした、芸術のために私生活を破壊せざるを得なかった
破滅型私小説 の2種類に分けて論じた。そこには実生活と芸術の二律背反
が見られた。
1960年代以後、丸谷才一、篠田一士らの私小説批判が長く続いたため、
1980年前後に村上春樹、村上龍が登場して以後、ファンタジー風の
純文学が隆盛を迎え、私小説は低調となったが、車谷長吉、佐伯一麦、
また21世紀に入ってからは西村賢太などが現れ、また秋山駿は
『私小説という人生』で、小谷野敦は『私小説のすすめ』で、それぞれ
私小説再評価の烽火を上げた。
海外の日本文学研究でも注目され、イルメラ=日地谷・キルシュネライトは、
小林の「私小説論」は論理的に読めないと批判し、鈴木登美『語られた自己』は、日本には「私小説言説」があるだけで、私小説がきちんと定義されたことはないと指摘した。実際、夏目漱石の『道草』などは明らかに私小説でありながら、単に漱石は自然主義派ではないというだけでこれを否定するという風習が行われてきた。
大江健三郎の『個人的な体験』に始まる諸作についても同じことが言える。
「自伝的小説」との区別は実際困難で、小谷野敦は、鈴木の論を受けて、
西洋にもゲーテ『若きウェルテルの悩み』、トルストイ『幼年時代』『少年時代』『青年時代』、ラディゲ『肉体の悪魔』、プルースト、アンドレ・ジッド『一粒の麦もし死なずば』、ヘッセ『車輪の下』、ヘンリー・ミラー、ハンス・カロッサのほぼ全作品など、自身の経験に基づいた小説が多いことを挙げて、「私小説は日本独自のもの」
との通説に疑問を投げかけている。また、谷崎潤一郎は『痴人の愛』を
自ら「私小説」と呼んでいる。
実際には、自身の体験に基づいた小説を書かない作家は、安部公房や倉橋由美子など
ごく少数であり、それ以外は大衆小説になっているのが現状である
(『小説「私小説」』の中で私小説以外を認めない老大家を諷刺した筒井康隆にも『騒春』など
自身の体験に基づく小説がある)。
また三島由紀夫の、式場隆三郎宛の手紙の公開によって、『仮面の告白』が
私小説であることがわかり、ラディゲの『肉体の悪魔』が、のちの研究によって
事実であったとわかるなど、のちに私小説だとわかることもある。
さらに、トーマス・マン『ブッデンブローク家の人々』や、島崎藤村『夜明け前』、
北杜夫『楡家の人びと』のように自身の家系を描いたものもあり、
村上春樹『風の歌を聴け』なども、村上の実体験に基づいているとする
分析もあって、推理小説、歴史小説、ファンタジー、SFなどを除いていくと、
私小説的でない純文学を見出すのはかなり困難になる。
【そして・・・】
正直、私の場合は理論よりも感覚なのです。
おわんに引っ掛かったわかめのような小説には不快感が強く残ります。
かつて、たまたま読んだ小説が肌に合わなかった・・・
それだけのことなのです。
が、これも書く上での方向性に繋がっていくことでしょう。
桜の花も花筏となりつつ次の花が咲き誇ります。
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一つの試み
http://tamamimoku.exblog.jp/19606777/
2013-03-05T19:44:00+09:00
2013-03-19T13:44:39+09:00
2013-03-05T19:44:15+09:00
tamami-mokusiroku
未分類
私はかつて、哲学か国文学か・・・と選択に悩んだことがございました。結果的には、それらとは全く関係のない仕事に追われる日々を過ごしてまいりました。
けれど、いつも私の脳裏から、私の精神世界から忘れ去られることもなく、むしろ意図せずに、抱え込みつつ温めていたように思います。
その範囲はあまりにも広義で、かつ深いものであることを、今更ながら目の前に叩きつけられ、戸惑い恐れ慄いている次第です。
このブログに書き込もうとする時に、昔も今も変わっていない自分をより一層知ることとなりました。解っておりますが・・・よくも耐えられたものだと、よくも何もしてこなかったものだと・・・
一つ、一つ、私の脳裏に絡まっている糸と混沌として朧な固まりを鮮明にしなくてはならいと思っております。
さて・・・何から始めましょう?
今、一つの試みとして、まずは掌編を某サイトに投稿すべく作品を書いております。行きつ戻りつしつつ。
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備忘録
※今日はネットの知り合いが読んだという本をamazonに注文致しました。
「とんび」重松清 角川文庫]]>
書きたいから書くとは・・・
http://tamamimoku.exblog.jp/19409303/
2013-02-25T17:10:00+09:00
2013-03-05T20:27:23+09:00
2013-02-25T17:10:05+09:00
tamami-mokusiroku
未分類
山を登らずにはいられない何かが存在しているから登るのであろう。
山登りについては登山家に譲ることに致します。
「そこにペンがあるから」それは「書きたいから書く」書かずにはいられない何かが存在しております。故に書くのです。
悶々とする日々が続いた時にある美しい風景や画像に出遭いました。
それまでの霧のような暗雲がすーっと去っていきました。
この感覚。この歓び。この時の体感が所謂「美」との遭遇なのです。
同様のことは音楽や絵画や彫刻・陶芸等と芸術作品との出遭いにも感得出来ます。
言葉など要らない。でも、言葉にしたい。どこまで文字で表現出来得るでしょうか。
それを文字に変えたとき、このような場面を彷彿させることが出来るでしょうか。
私はそんな文章を物語を書きたいのです。
これまでに、もちろん文字の媒体にも大きな感動を得ることが出来たことは云うまでもありません。
悩みや苦しみを一時忘れさせ、更に夢と希望と癒しの場面の数々を・・・
恐れや不安を包み込むことが出来たとしたらこの上ない歓びとなるでありましょう。
書く理由と書きたい理由はもちろんこれだけではありません。
日常の繰り返しの中で迷い、傷つき、疲れ暗雲が差し掛かった時の備忘録の一環としてここに認めることに致します。
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「そこに山があるから」・・・書く為の位置付け
http://tamamimoku.exblog.jp/19396993/
2013-02-24T22:44:00+09:00
2013-02-24T23:11:46+09:00
2013-02-24T22:44:37+09:00
tamami-mokusiroku
未分類
「なぜ、あなたはエベレストを目指すのか」と問われて
「そこに山があるから(Because it is there. )」と答えたという逸話は有名ですがこれは、<イギリスの登山家 ジョージ・ハーバート・リー・マロリー(George Herbert Leigh Mallory 、1886年6月18日 - 1924年6月8日?)の名言として知られております。
「そこに山があるから」この言葉の背景に見えてくるものに着目することが出来ます。故に今日まで名言として残っているのでありましょう。(筆者主観)
言葉の背景にあるものを捉えることが出来る内容は大きく、広い海のようであり、
あるいは大きく広い空のように広がっていくのをまざまざと観る事ができます。
言わずもがな・・・人夫々により捉えることの出来る内容は千差万別であると致しましょう。
では、「何故書くのか? 何の為に書くのか?」と自らに問うたときに「書きたいから」なのです。
「書きたいから書く」 では何の為に?・・・
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目標と目的
http://tamamimoku.exblog.jp/19344113/
2013-02-21T18:59:00+09:00
2013-02-21T19:08:32+09:00
2013-02-21T18:59:30+09:00
tamami-mokusiroku
未分類
今月の1日から私は書くことに専念すべく時間を増やすことに致しました。
体調のこともございまして通勤を辞め、自宅で仕事をすることにしたのですが、
まず、これまでの疲労の蓄積の為でしょうか
思いとは裏腹に身体が動きません。さらに気力も低下致しました。
無気力って・・・息を吸うのも面倒・・・こんな感じです。
何があっても健康と気力だけは取り戻さなくてはなりません。
まずはここから始まります。
すでに21日が経ちましたが【俳句】を詠むことだけで終わる一日。
【短歌】はお留守になりがち、【詩・ぽえむ】も然り・・・
【俳句】と【短歌】だけは一日一句・一首を目標にしておりました。
が、体調が悪かったりぼんやりと過ごしたりで何も出来ない日もございました。
ブログに【童話・メルヘン】を掲載しておりましたが、ストップ状態です。
掲示板に【短編】を書いておりましたがこちらもストップ状態です。
創作の仕方あるいは掲載の仕方に疑問を感じ始めたのも大いに手伝ってくれました。
このやりかたで良いのか・・・と
私の場合は全ての創作は即興です。
掌編・短編は原稿用紙に書いてみることに致しましたが放置状態でした。
その後、ストップ状態が続いておりましたが、まだ続くことになりそうです。
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はじめに・・・百川帰海とは・・・
http://tamamimoku.exblog.jp/19327256/
2013-02-20T17:52:00+09:00
2013-02-25T22:04:35+09:00
2013-02-20T17:44:25+09:00
tamami-mokusiroku
未分類
一か所に集まることです。
2.人心や大勢が向かうところです。
3.多くの人々の気持ちや考えが一つにまとまることです。
※百川 とは あらゆる川、すべての川が最終的には同じ海に注ぎ込むことです。
「百川ひゃくせん海うみに帰きす」と訓読します。・・・
では・・・私の内なるものをかき集めて海原へ注ぎましょう。
幾千本の川はどんな川なのでしょうか?
蛇行して膨らんであるいは更に散り散りになっても海という終着点につくまでに
どのように変化して纏まりつくのでしょう・・・
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