ライター及び創作に於ける   思考と感性の一考察


by tamami
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一つの方向性


【私小説とは・・・】
小説の読書量は少ないかと思います。
中学生の頃読んだ本で心に残っているものもありません。
高校生の頃から翻訳物ばかり読んでおりました。
いや、哲学書かな?形而上学とか聖書等・・・

私は何処から来て何処へ行くのだろうか?
私はここに来る前に何処に居たのだろう?
小学生の頃の私はこんな事ばかり考えて夜も眠れないほど
恐ろしかったものです。

何故宗教を持っている人は皆他の宗教の批判ばかりしているのだろうか?
宗教って何?
真実って何?
一番大切なものは何?
こんなことばかり考えておりました青春時代は楽しいはずもありません。

それは大人になっても続きます。

【心に残る書物】
絵本です。
今でも鮮明に残っておりますのが「ピーターパン」
「親指姫」や「一寸法師」は絵の美しさが記憶に刷り込まれております。
あの絵本はもう何処にもありません。
無駄とは知りながら探しましたが見つかりませんでした。
探す術など本屋さんだけですものあろうはずもありません。
図書館はどうでしょうか? いえ、記憶の中のままに留めておくのもそれもまた、
一つの選択肢です。

物語では、まだまだあるのですが、テーマが思い出せません。
そのうちふと、思い出すことでしょう。
思い出すたびにこちらに認めることに致すとして・・・
つまり、それを考えておりますとその中にどっぷり浸かり、先に進まず
そのまま放置しかねません。
次から次と降り注ぐ文字の雨は整理するのが容易ではありません。

今は思いつくたびに認める方法に致しましょう。
一つは辻邦夫さんの「輩教者ユリアヌス」が面白くその後
彼の作品に夢中になりました。
そして、塩野七海さん
ヘッセ、ゲーテ、カフカ、スタインベック等々の翻訳者に夢中になりましたが、
原本で読んだらまた別な感動を得られるかもしれないと想ったものです。

さて・・・馴染めなかった小説は日本文学の私小説です。
読書後の何とも云えないやりきれなさ、
野暮ったさばかりが肌に染み付く不快感を覚えたものです。
つまらない・・・
そんな中で唯一引き込まれて読んだのが倉橋由美子さんでした。
つまりは、今にして思うことは彼女の作品は所謂創作なのです。

創作こそが小説・・・これは持論です。

スマートでモダンだったからかしら?

現在私の本棚を探しても彼女の作品は見つかりません。
引越しの度に整理されてしまったのかもしれません。
私自身が実行したはずなのですが、記憶の彼方です。
そんな時に只管残念でなりません。

また、読んでみよう。いや、もうそんな時間はありません。

【では、私小説とは?】
ーウィキより長い抜粋ですー
私小説(ししょうせつ・わたくししょうせつ)は、日本の近代小説に見られた、
作者が直接に経験したことがらを素材にして書かれた小説をさす用語である。
心境小説と呼ぶこともあるものの、私小説と心境小説は区別されることもある。
日本における自然主義文学は、私小説として展開された。
ー中略ー
「私小説」は、そのような手法と相まって身の回りや自分自身のことを
芸術として描く。内面描写を中心に語られる事が多い。

その名称から、「私」と一人称で語られるものとする誤解があるが、
三人称のものも多い。

小説においては作者と作品の主人公は同一視出来ないとするのが
一般的だが、私小説の解釈では主人公がしばしば作者本人と同一視され、
作者の年譜との比較検証がされる事もある。

批評
小林秀雄は「私小説論」(1935年刊)で、西洋の「私」は社会化されているが、
日本の「私」は社会化されていないと、「私小説は死んだ」と説いた。

小林の批評は、戦後も長く影響を持った。他方、西洋19世紀のいわゆる
本格小説は通俗的であるという観点から、久米正雄は、私小説のみが
純文学であると主張し、この通念も長く文壇を支配した。

私小説批判を展開したのは、戦後の中村光夫、福永武彦、中村真一郎ら
であり、彼らはフランスのフロベールやバルザックなどの“客観小説”を
模範とした。しかし、のちに中村光夫は自身が私小説を多く書き、また実際の
文芸批評では私小説も評価した。

伊藤整は、近代小説の根源に作家本人の告白性があると主張した。
さらに平野謙は、私小説には調和型と破滅型の2種類があるという考えを
押し進め、
1.白樺派を源流とした、自己を掘り下げることと自分の生活を調和させる
代わりに制作意欲を減退させた調和型心境小説
2.自然主義を源とした、芸術のために私生活を破壊せざるを得なかった
破滅型私小説 の2種類に分けて論じた。そこには実生活と芸術の二律背反
が見られた。
1960年代以後、丸谷才一、篠田一士らの私小説批判が長く続いたため、
1980年前後に村上春樹、村上龍が登場して以後、ファンタジー風の
純文学が隆盛を迎え、私小説は低調となったが、車谷長吉、佐伯一麦、
また21世紀に入ってからは西村賢太などが現れ、また秋山駿は
『私小説という人生』で、小谷野敦は『私小説のすすめ』で、それぞれ
私小説再評価の烽火を上げた。

海外の日本文学研究でも注目され、イルメラ=日地谷・キルシュネライトは、
小林の「私小説論」は論理的に読めないと批判し、鈴木登美『語られた自己』は、日本には「私小説言説」があるだけで、私小説がきちんと定義されたことはないと指摘した。実際、夏目漱石の『道草』などは明らかに私小説でありながら、単に漱石は自然主義派ではないというだけでこれを否定するという風習が行われてきた。
大江健三郎の『個人的な体験』に始まる諸作についても同じことが言える。

「自伝的小説」との区別は実際困難で、小谷野敦は、鈴木の論を受けて、
西洋にもゲーテ『若きウェルテルの悩み』、トルストイ『幼年時代』『少年時代』『青年時代』、ラディゲ『肉体の悪魔』、プルースト、アンドレ・ジッド『一粒の麦もし死なずば』、ヘッセ『車輪の下』、ヘンリー・ミラー、ハンス・カロッサのほぼ全作品など、自身の経験に基づいた小説が多いことを挙げて、「私小説は日本独自のもの」
との通説に疑問を投げかけている。また、谷崎潤一郎は『痴人の愛』を
自ら「私小説」と呼んでいる。
実際には、自身の体験に基づいた小説を書かない作家は、安部公房や倉橋由美子など
ごく少数であり、それ以外は大衆小説になっているのが現状である
(『小説「私小説」』の中で私小説以外を認めない老大家を諷刺した筒井康隆にも『騒春』など
自身の体験に基づく小説がある)。
また三島由紀夫の、式場隆三郎宛の手紙の公開によって、『仮面の告白』が
私小説であることがわかり、ラディゲの『肉体の悪魔』が、のちの研究によって
事実であったとわかるなど、のちに私小説だとわかることもある。
さらに、トーマス・マン『ブッデンブローク家の人々』や、島崎藤村『夜明け前』、
北杜夫『楡家の人びと』のように自身の家系を描いたものもあり、
村上春樹『風の歌を聴け』なども、村上の実体験に基づいているとする
分析もあって、推理小説、歴史小説、ファンタジー、SFなどを除いていくと、
私小説的でない純文学を見出すのはかなり困難になる。

【そして・・・】
正直、私の場合は理論よりも感覚なのです。
おわんに引っ掛かったわかめのような小説には不快感が強く残ります。

かつて、たまたま読んだ小説が肌に合わなかった・・・
それだけのことなのです。
が、これも書く上での方向性に繋がっていくことでしょう。

桜の花も花筏となりつつ次の花が咲き誇ります。
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by tamami-mokusiroku | 2013-04-08 19:21